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書籍案内(陽明学のすすめU 人間学講話「安岡正篤・六中観」)
序文
財団法人 郷教研修所・安岡正篤記念館

理事長 安岡正泰


 昭和初年、都市の頽廃が進む一方で農村の窮状、日本の伝統的公序良俗が失われつつある風潮を心配した父は、東洋倫理の根本に立ちかえって儒学を中心に東西先哲の教学をはかり、社稷の士を育てるため昭和二年東京・小石川に金鶏学院を開院して終戦時までの間に多くの有為な人材を世の中に送り出してきた。

 昭和二十年、太平洋戦争も敗戦色濃厚となり、五月二十五日の空襲で東京・白山の自宅も全焼した。当時埼玉の日本農士学校(現 財団法人 郷学研修所)に疎開していた私は、母や妹と真紅に染まった東京方面の空を望見しながら父や兄の無事を祈っていたことを思い出す。その後父は焼失をまぬがれた金鶏学院の一室で起居するようになった。

 旧『百朝集』は、この学院で終戦前後の百日間朝の行事としてほんの十分か二十分、活学講義(朝参)した語録を編集刊行したものである。
 今私は、この旧『百朝集』を一章ごとに読みかえしているが、終戦前後の国情混乱した時代に慟哭しつつも日本人の道義心を訴えつづけてきた父の心情が切々と胸に迫ってくる思いである。
 ちなみに八月十日付『左伝』から引用した「小の能く大に敵すること」(新編では第八四「小と大」と改題)を見てゆくと

 臣聞く、小の能(よ)く大に敵するは、小は道あり、大は淫(いん)なればなり。所謂(いわゆる)道とは民に忠にして神に信あるなり。上・民を利せんと思ふは忠なり。祝史・辞を正しくするは信なり。今民餒(う)ゑ而(しか)も君・欲を逞(たくま)しうし、祝史・驕(きょう)挙(きょ)して以て祭る。臣その可なるを知らず。

 脚註に「あゝ是(こ)れ古のことか。今もこの通りではないか。君とは誰か、驕れる自称指導者の流れである」とあり、時の指導者に対する激しい父の痛憤が発せられている。

 同日父は朝参を終えると外出、帰院すると幹部に「日本降伏」と漏らし自室に籠ったという。同日夜半父は、金鶏学院の一道業として昭和六年に創立した日本農士学校の職員学生にあてた「終戦に際する告辞」を書きあげ、幹部に明朝伝達するよう指示している。その内容はいささか長文であるが省略せずに紹介しておきたい。
 但し、「学寮の日誌」八月十日の項に「午後一時、突如講堂に集合の令あり、安岡先生の手紙発表さる。・・・この状堅く緘口令敷かる・・・」と書かれている事は、御承知戴き度い。

 昭和二十年八月十日 全校ノ諸子ニ対シ 痛恨極マリナキ一事ヲ伝エントス 諸子 夫レ能(よ)ク肝ニ銘ジ骨ニ刻シテ忘ルルナカルベシ
 八月六日 広島爆撃ニ際シテ敵ノ用イタル新爆弾ハ其ノ言語ニ絶スル惨烈ナル威力ヲ以テ從来得意ノ絶頂ニ在リタル蘇(ソ)連ヲシテ愕(がく)然色ヲ失セシメ 一転シテ機敏ニ米英ト呼応シ日本ニ宣戦セシムルニ至レリ
 茲(ここ)ニ於テ日本ハ腹背ニ敵ヲ受ケ全ク兵家所謂(いわゆる)死地亡地ニ立チタルナリ
 九日朝来 戦争最高指導会議・閣議・御前会議 急遽開催セラレ 其ノ他有志ノ熱論 夜ヲ徹シテ行ワレシガ 今朝(十日)ニ至リ廟議一決 遂ニ皇室ノ儼(げん)存(そん)ヲ条件トシテ 七月二十六日ノポツダム宣言ヲ受容スルコトトナリ 直ニ中立国タルスウィス及スウェーデンヲ通ジテ連合国ニ通告セラレタリ 即(すなわ)チ日本ハ自ラ敗戦ヲ認メ 世界ノ平和ト人道トノ為ニ敵国ニ降服シタルナリ
 此ノ聖断ニ出デタマイシ宸襟(しんきん)ト光栄アル二千六百年ノ国史トヲ思ウテ 之ヲ聴取セシ刹那 真ニ慟哭(どうこく)シテ断腸ヲ感ゼリ 無限ノ心事 今俄(にわか)ニ筆紙ニ上シ難シ 先ズ急使ヲ以テ事ノ次第ヲ諸子ニ報ジ 諸子ノ深省ニ資スルナリ 然レドモ事未ダ全ク決シタルニハ非ズ 敵モシ皇室ヲ冒?スルノ回答ヲ発センカ 終(つい)ニ七千万ノ同胞ヲ挙(こぞ)ツテ皇国ニ殉ズル外ナカルベシ 此ノ事ハ暫(しばら)ク舎(お)キテ抑(いよいよ)此ノ度ノ敗戦ハ主トシテ何ニ依ルカ 諸子平生ノ講学求道ニ依リテ已(すで)ニ明ラカナルベシ 是実ニ内ニ於テハ道義ノ頽廃 外ニ在ツテハ科学力及政治力ノ未熟ノ結果ナリ 此ノ敗戦ノ後ニ来ルモノハ戦争ニモ増ス苦痛ト紛乱ト屈辱トナルコト亦(また)明瞭ナリ
 小人奸人其ノ間ニ跋扈(ばっこ)シ 異端邪説横行シテ国民帰趨ニ迷ウベシ 此ノ邦家ノ辱ヲ雪(スス)イデ天日ノ光ヲ復スベキモノ実ニ諸子ノ大任ナリ 諸子夫レ深潜厳毅以テ自己人物ヲ錬磨シ 鎮護国家ノ道約ヲ果スニ遺憾ナカランコトヲ期セヨ
                           金鶏精舎ニ於テ 安 岡 正 篤

 当時まだ少年であった私には、父の苦悩の深さを知るよしもなかったが、ただ母の憔悴した後ろ姿を見て、ただならぬ事態になっていることを感じたのもこの頃であった。

 旧『百朝集』あるいは昭和二十七年に大巾改訂された新『百朝集』は、終戦時の混乱した時代から経済大国となった今日まで、あまりにも功利一辺倒、自己中心型社会になってしまい、精神的自壊の様相が進むことに心配した父が心ある人々に何か心の拠りどころの指針として作ったものである。

 今回畏友深澤賢治氏が『陽明学のすすめU―人間学講話「安岡正篤・六中観」』を出版されることになった。
深澤氏は大学卒業後、会社を創業して堅実な経営を進め、着実に発展させる一方、東洋思想を活学として修め、人生のあり方、それこそ機を活かした人生の五計を実践しておられる。
平成十九年還暦を機に東洋古典を基本とした教育啓蒙活動のフォーラム 中斎塾を開塾された。
また長年にわたって、父の説く東洋人間学に心酔、とくに『百朝集』の「六中観」については強く心魂を揺さぶられたのでないだろうか。
このたび父の人間像を親近感をもって描き、「六中観」の真意を読者の方々に広く伝えたいという深澤氏の熱い志に敬意を表するものである。

推薦の言葉
緑村吟詠会 会長 九十七翁 坂本坦道


 昭和の初め、緑村先生の提唱される教育吟詠の道に入ってより、すでに七十有余年となる。ひたすらに緑村先生の教えに則り、斯(し)道(どう)を歩んできたわけだが、九十七の齢(よわい)で、今も全身全霊をもって吟詠のなるは、まさしくこれ得難き師友の縁(えにし)による。
 緑村先生のほか、私は人生で幾人かの恩師に恵まれた。その先(せん)達(だつ)たちは、私の人格形成に多大な影響をもたらした。そのなかに、一世の師表と仰がれた瓠(こ)堂安岡正(まさ)篤(ひろ)先生がおられる。
 安岡先生の著書は、青年時代、勤務していた学校の図書館で読ませていただき、ご高名は夙(つと)に承っていた。戦後、友人の大東文化大学・沖田理事の紹介を得て全国師友協会の講演会で謦(けい)咳(がい)に接し得、その時、大東文化大学の学長就任をお願い申し上げたところ、先生から、「今の日本をどうするかという一大事の時に、一つの大学のことなどにかかわってはおられぬ」というお返事をいただいたことは、いまもなお胸中深く残っている。
 学生時代から陽明学に心を傾け、わが「坦道」の雅号も陽明の名詩「啾(しゅう)々吟」からいただき、得々としておったのではあるが、陽明が死中活を得て悟りを開いたように、陽明学は勿論のこと、学問はすべて命がけでなくては本物にならぬという安岡先生のみ教えには、ただ頭の下がるばかりである。
 今日、わが吟詠の門下生である中斎塾塾長の深澤賢治氏が、この縁深き安岡先生のみ教えを、現代日本に改めて紹介したいと一書をものした。まことに慶賀に堪えない。
 真剣なる学徒には、知遇の有無はもとより、時空を超えて魂の授受がなされることは、吟詠八十年になんなんとする私のよく知るところである。彼は今後も日本陽明学の学統に連なるものして、日本の将来のため、東洋思想を基底とした教育に邁進し、魂の種蒔をし、俊英を育成していくことであろう。望むらくは、一吟 天地の心をもって、吟詠の道にも尚一層励まれんことを。
                           平成二十年七月  坦道 識す


まえがき
深澤 賢治

 安岡正篤先生は、偉大な方で簡単には近寄れない、そして厳しくかつ怖い方だというイメージでした。
 一度もお会いした事がありませんので、沢山の書籍、講演録、CDや身内の方々・お弟子の諸先生方のお話を伺って人物像をつくりあげておりました。
 今回真剣に安岡先生の膨大な資料に取り組んでおりましたら、或る日突然、従来抱いていたイメージがガラッと変っている事に氣がつきました。
 茶目っ気たっぷりで、剽軽(ひょうきん)な好々(こうこう)爺(や)という人物像になっていました。更にお金には無頓着で、御自分では「私ほど手間のかからない老人はおらんよ」などとおっしゃっていた所など、とても親近感が湧いて参りました。
 そこで、その印象を全面に押し出したいと考えまして、出来得る限り安岡先生御本人の御言葉を多くの書物から引用させて戴くと同時に、身内の方々・高弟(こうてい)の先生方のお話を極力原文に忠実な形で掲載させて戴こうと思いました。
 テーマが六(りく)中(ちゅう)観(かん)ですので、安岡先生の説かれた六中観を再現したいと願いまして、こちらも引用が多くなりますが、原文を出来得る限り、そのまま掲載させて戴きました。
 私が何故六中観を選んだかと申しますと、人間学の勉強会であります悟(ご)道会(どうかい)で、毎月一回七年間に渡り六中観の講話を致しておりました関係で、六中観に対し深い思いが湧いていたからでございます。
 通算二〇年程の思いが込められておりますので、安岡正篤先生について何か書かせて戴く際は、六中観と無意識の内に決めておりました。
 今回はからずもこのような機会に恵まれまして、本書を世に送る事は、私にとりまして望外の喜びとする所であります。
 本著が皆様のお役にたてますよう、心より願っております。

                                平成二十年七月三十一日
                                   深 澤 賢 治      

あとがき
深 澤 賢 治

 平成二十年一月二十六日(土)二松學舎大学・中洲講堂に於て、第一回中斎塾年次大会が行なわれました。その記念すべき大会でお話させて戴いております時、安岡正篤先生の六中観をどうしても本にしたいのですと発言致しました。
 それ以来、六中観を本にしたいと思い続け、皆々様のお陰をもちまして、やっと形になって参りました。
 今、赤城山におりますが、こちらはもう秋です。ひんやりとした空氣が美味しいうえに、近くの即売所で売っている玉蜀黍の焼きたてが、極上の氣分にさせてくれます。
 今回は、株式会社 中斎塾の関根事務局長と佐藤昌子さんに絶大なる能力を発揮して戴き、短期間で出版可能の所まで進めて戴きました。
 関根事務局長は、六中観刊行すべてに采配を振って戴き、特に『旧 百朝集』の削除された講話四十六篇を付録の形で掲載したいとの希望を話したところ、必死に取り組み、皆様に見て戴けるところ迄まとめて下さいました。厚く感謝を申し上げます。又、佐藤さんは今回も色々な講話テープの中から関係ある話をつなぐ面倒な作業を、嫌な顔ひとつせずにすすめて下さり、修正に次ぐ修正でも爽やかにこなして戴きました。心より感謝申し上げます。
 思わず姿勢を正したくなる序文を安岡正泰理事長から、身の引き締まるような跋文を荒井所長から賜わりまして、恐縮しつつ深謝し、かつ感激致しております。
 九十七翁・坂本坦道先生には、日頃より御指導戴いておりますが、此の度は本書に対し特別に推薦の言葉を頂戴し、心底より感謝申し上げる次第です。
 株式会社 シムックスの柿沼取締役と森経理部長、株式会社 中斎塾の権田有美さん・深澤智恵子さん・深澤文江さんの御協力に感謝致しております。
 最後に明徳出版社編集長の佐久間保行氏・担当の片江麻紀子さんには、いつもの事ながら御迷惑をかけつつ、一方ならぬお世話になり、御礼申し上げます。

                           平成二十年八月二十二日
                         赤城山 壺中庵にて  深 澤 賢 治