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心に残る言葉

平成30年6月19日(火)
 私は真剣勝負だ。しくじりをやれば命をとられ、店はつぶれる。
 
 私がよくいってきかせたことがある。君らの仕事と私の仕事を、剣道の試合にたとえてみれば、若い店員は袋竹刀の勝負だ。いくら叩かれたって、ああ叩かれた、くらいで済む。その次の連中は木剣の試合くらいで、支店長あたりでも、木剣で叩かれれば、血は出るけれども、命までもとられるようなことはない。
 しかし私は真剣勝負だ。しくじりをやれば命をとられ、店はつぶれる。それだからいつも真剣を抜いてやっておる私と、仕事の立場上真剣の抜けない支店長、支配人あたりが会得するものとの間に、どうしても越すことのできない壁がある。これはいかんともいたしかたがない。私以外には味わえないんだから、それはさよう心得ていよといって、よく教育したものだ。(昭和三十八年八月『「人の世界」と「物の世界」』より)


『出光佐三語録』木本正次著  PHP文庫  P81


平成30年5月8日(火)
 満たされることで満足できるのが「自然の欲望」。
 そしてもう一つ、満たしてしまうと、さらに次の欲望が生まれてくるのが「奴隷の欲望」。
 欲望にはこの二つがあります。それを十分に理解していただけたとして、話をさらに進めましょう。
 ユダヤ教やキリスト教で「奴隷になってはいけない」と教えているのは、まさにこの「奴隷の欲望」にそそのかされてはいけませんよということです。
 そして、仏教においては「小欲知足」の教えをもって、わたしたち人間をいましめています。
 そうであるにもかかわらず、多くの人は、「でも…」と言います。
「でも、欲を持って働かないと、今の競争社会で負け組に入ってしまいます」
「でも、人間には向上心がある。それは否定できないでしょう」
「でも、お金を求めずに生活できるはずありません」
 でも、でも、でも…。なんとまぁ「でも」の多いことか。
 こうした人たちは、あれこれと理屈をつけて、ほとけさまの教えを骨抜きにしようとしています。つまり、自分の都合や世の中の都合に合わせて反論しようとする。それが、今の資本主義社会に生きる日本人の姿です。
 なぜ、こうした「でも」が生まれてくるのか。そこには「小欲知足」の考え方に対する大きな誤解があるからです。
 「小欲知足」の教えは、「奴隷の欲望はいっさい持ってはいけません」などとは言ってはいません。オール・オア・ナッシングではないのです。
 小欲、つまり足るを知って、欲を少なくしましょうということです。
 ここのところを履き違えてはいけません。
 「無欲になれ」ではなく、足るを知って生きていきましょう。
 これが「小欲知足」の本質です。


『けちのすすめ』ひろさちや著  朝日新聞出版  P26〜27


平成30年3月14日(水)
 「自殺袋」
 オタマジャクシがカエルになるときには、尾がなくなる。
 それまではオタマジャクシとして尾を振りながらすいすい泳いでいたのに、カエルになるときが近づくと、尾は短く小さくなっていく。そしてそのかわりに手足か生えてくる。
 外から見ていればただそれだけのことである。いや、ただそれだけなどといってはいけないだろう。尾が短くなり、それまでなかった手足が生えてくること自体、たいへんな変化である。
 そのときには、尾の細胞が「自殺」する。オタマジャクシに手足か生えてカエルに変態するときには、いわゆる変態ホルモンが分泌されるようになる。この変態ホルモンの作用で、それまで尾を形作っていた細胞が「自殺」をはじめるのである。
それまで尾の細胞、尾の筋肉の細胞として働き、尾を動かしてオタマジャクシを泳がせてくれていたたくさんの細胞は、元気を失い、細胞としての働きも衰えていって、やがて死に、自ら破裂して血液に吸収されてしまう。そのとき、尾の細胞は他の細胞に取って食われるわけではなく、自分の中に自分を破壊し消化してしまう物質を作り出して、文字どおり自殺するのである。尾の細胞の中に作られる、この物質を含んだ小さな袋は、英語でsuicide bagつまり「自殺袋」と呼ばれている。
自殺袋は、オタマジャクシが成長して一定の時期、すなわちもう変態してカエルになってもよいという時期になるとできてくる。それまで重要な運動器官として機能していた尾は、そうなると衰えはじめ、それを構成していた細胞が次々に自殺して消えていくので、次第に小さく短くなっていく。
 しかし、この細胞の自殺も、むやみやたらにおこるわけではない。たとえば、尾のつけ根の細胞がみんなまっ先に自殺してしまうと、尾はぽろりと落ちてしまうことになる。
 そういうもったいないことはふつうはおこらない。細胞の自殺は尾のいちばん先端や、縁の部分からはじまる。そして自殺した細胞がつくっていたタンパク質その他の成分は、血流によって胴体のほうに運ばれ、新しくできてきた手足を作りあげていくのに使われる。こうして尾はいちばん先端や縁のほうから小さくなっていき、尾が小さくなっていく分だけ、手足が大きくなっていく。見事なリサイクルである。ちゃんとそのようになるために、細胞の自殺の順序はきまっている。そこにはきちんときめられたプログラムがあるのだ。
 だれがそのプログラムをきめるのか、それは本書の中で次第にわかっていくと思うけれど、オタマジャクシの尾におこるこのいわば「老化」と死は、いずれにせよ、ある一定の前向きの目標をもっている。つまり、オタマジャクシかカエルに変態して、生殖し、それぞれが自分の子孫を残していくためという目標をもっているのである。


『人はどうして老いるのか 遺伝子のたくらみ』日高敏隆 朝日文庫 P18〜P20