平成29年4月4日(火)
安岡先生によれば、江戸時代は世界史でも最高の文治社会であり、そこにはぐくまれた教養人たちが縦横に活躍するのが幕末明治維新であるので、維新の歴史が面白いというのである。
確かに、維新を見ずに死んだ吉田松陰、佐久間象山、藤田東湖等々数えきれない人々をはじめ、維新のにない手西郷隆盛と言い、幕府側の幕末三舟―勝海舟、山岡鉄舟、橋泥舟―と言い、その後の日本の近代化をになった陸奥宗光、福沢諭吉と言い、少なくとも古典の教養で較べてみれば、現代人は誰も太刀打ちできない教養人たちである。
確かに時代も人を創った。こうした人々を十二分に活躍させたのは、すべてが破壊され、新たに創造される変革期だったからである。
しかし歴史と古典の教養がなく、自分の身のまわりの貧弱な経験しか知らない人は、大きな変動に際してどうしてよいのかわからなくなってしまう。歴史と古典を知っている人にとっては、大きな変動もデジャ・ヴュ(かつて見たことがあること)である。そういう変動期こそ、教養人の洞察力が活きてくるのである。
歴史には時として、こういう大変動期が訪れる。私個人も、敗戦の時の日本、ソ連邦解体の時のロシアで、肌で感じている。しかし日本の場合は、本当に過去が清算されて白紙の状態になったのは敗戦直後のほんの二、三カ月であった。
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『国のつくり方―明治維新人物学』渡部昇一・岡崎久彦著 致知出版社 P3〜P4
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平成29年2月13日(月)
今はあらゆる面で情報過多の時代です。インターネットをはじめとして、テレビ、新聞、その他、あらゆるもので情報はあふれかえっています。しかし、そのあふれかえっている情報のうちで、自分の役に立つものは二種類あります。
ひとつは、自分の仕事にすぐに役に立つという事務的と言ってもいいものです。たとえば自然科学者で医薬品開発に携わっている人ならば、世界中の医薬品会社がどういう薬を開発しているかなどという情報はきわめて重要な情報です。それはあらゆる分野に言えることで文科系統においてすらも、たとえばシェイクスピアの論文を書くときには、今外国の、あるいは、かつての日本人のシェイクスピア学者が何を書いたかということは常に自分のテーマに合わせて検索する必要もあるでしょう。
ところがもうひとつ、別の知識というものがあります。それは自分自身をつくりあげていくための知識です。これは今言ったような意味のすぐに役立つものではなくて、自分をつくっていくとき、じっくり考えるのに役立つものです。
では、自分とは何かと言えば、私は簡単に言えば、自分という記憶の連続の中にあるものだと思います。その記憶の連続の中にあって、常に離れていかないもの、それが自分の考え方であり、信念であると思います。
その信念を養っていくのに役立つ情報というのがありますが、この二種類の情報がしばしば混同されている恐れがあるのではないでしょうか。インターネット、その他の、いわゆるマスコミ情報で入る情報の多くは、自分の外面的な仕事などに関する情報です。ところがそれとはまったく別の情報があります。その情報は、新しさ、古さにはまったく関係のないものです。たとえば、新約聖書は今から二千年ぐらい前に書かれたものですが、これを古いという人はいないでしょう。それは論語でも、お経でもそう言えます。また、芭蕉の俳句が古くさいという人もいないと思いますし、万葉集の和歌が古くさいと言う人もいないはずです。
このように自分の内面生活にふれたものには古いというのは関係ありません。
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『わたしの人生観・歴史観』渡部昇一著 PHP研究所 P4〜P5
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