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平成28年12月29日(木)
健康十訓
1 少肉多菜 肉を少なく野菜を多く
2 少塩多酢 塩類を少なく酢を多く
3 少糖多果 砂糖を少なく果物を多く
4 少食多歯 少なく食べてよく噛む
5 少衣多浴 なるべく薄着でよく風呂に入る
6 少言多行 おしゃべりを慎んで多くを実行する
7 少欲多施 欲望をひかえ施しを多く
8 少憂多眠 くよくよせずよく眠る
9 少車多歩 車に乗らずよく歩く
10 少憤多笑 あまり怒らずよく笑う
これは自らも数え年で八五歳という江戸時代では珍しく長寿を全うした貝原益軒(一六三〇〜一七一四、江戸前期の儒者)の『養生訓』の現代版といっていい。
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『知足の経済学』安原和雄著 ごま書房 P119〜P120
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平成28年11月9日(水)
水の原点
いつも言うように、戦後は日本の伝統や歴史を全て否定して、現在の理屈だけでものを考えるようになりました。そのため目先の欲に惑わされて、金もうけをするために人をだましたり、簡単に人を殺すというようなことがおきています。
このことを神さまの信仰という面から見ると、近頃特にご利益信仰をする人が増えてきております。
例えば、どこそこの神さまにお祈りするとお金がもうかるからといって、熱心にお参りする人がよくいますが、このような人はご利益が得られないと、すぐその神さまへの信仰をなくしてしまう場合が多く見受けられます。
けれども神さまを信ずるということの原点は、ご利益を得ることではありません。本当の信仰というのは、神さまに生かされていることに感謝し、一生涯神さまの導きを信じて生きることであり、お恵み(ご利益)というのは、知らない間に後から与えられるものなのです。
ですからご利益を得る目的で、神さまを拝むというのは、信仰でも何でもないのです。
これと同じことで、現代の人は金をもうけるためには、手段を選ばずという人が多いのですが、これも間違っています。お金をもうけるために仕事をするから失敗するのです。お金というものは、自分の努力の結果、得られるものであるという原点を忘れてしまっているのです。
なぜこのようなことをここで述べるのかというと、水の話というと、この水を飲んだらどの病気が治るとか、この水で顔を洗ったら、肌がきれいになるというようなお話を聞きたいという希望をよく聞きますが、これはいま述べましたご利益信仰と全く同じで、そんな話をしても意味はありません。
みんな結果ばかりを考えて、結果が現れなければすぐやめてしまいます。私が水の話をするというのは、そのようなうわべごとではなく、水の原点のお話なのです。
我々は水を飲まなければ生きてはいけませんので、病気が治らなかったり、肌がきれいにならなければ、水を飲むのをやめるというような問題ではないのです。そして、水の原点を知らなければ、どんな素晴らしい水を飲んだとしても、何の役にも立たないのです。
素晴らしい水というものは、長い間飲み続けていると、知らず知らずの間に罪・穢れが祓われて健康になるのであり、健康になることを目的に水を飲むのではありません。一見同じように思われますが、これは全く別なことなのです。この原点を知っていただきたいと思うのです。
不易流行とは
我々がいのちを伝えて生きていく姿として、よく不易流行という言葉が用いられますが、これは水の姿と全く同じです。
いのちというものは不易、すなわち原点の伝統は絶対に変えてはいけない。しかし習慣は、その時代の変化に順応して変えていかなければ、いのちは伝わらないというのが、不易流行の意味です。
先ほど述べましたように、水は周囲の環境によってどんどん分子の組み合わせを変えていきますが、原点となるH2Oの性質は絶対に変わることはありません。これはまさに不易流行の姿であり、この水によって我々は生かされているのです。
ところで、汚水は水が汚れた状態であると多くの人は考えますが、これは決して水が汚れているということではありません。汚水はただ、水に泥が混じっただけなのです。
神社の山や神域から湧き出ずる水は、神さまの気がこもった素晴らしい水が多いのですが、近年は周囲に家ができたりして、いろいろなものが混じり、飲料水として用いることができなくなったところが多くなりました。
これを見て多くの人は、水が汚れたと思っています。けれども神さまの水は汚れてはいないのです。汚水と同じで、ただ不純物が混じったために、飲めなくなっただけなのです。
前にも述べましたように、地球上の水の約九七パーセントは海の水であり、残りの二パーセント以上が南極や北極の氷山で、我々が飲んでいる水は一パーセント以下しかありません。
海の水がこれだけたくさんありながら、塩水であるために人間はそれを飲むことはできないのです。これも私は神さまの素晴らしい知恵だと思うのです。
ところで、動物はよく雨水を飲みますが、人間は雨水だけでは生きていけません。我我は雨水が一度地下に入り、地下の岩や石の間を通って、地表に湧き出た水を飲まなければ、生きられない仕組みになっているのです。
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『神道と<ひらめき>』葉室ョ昭著 P86〜P90
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平成28年10月6日(木)
鼠は人間の家に住んでいるだけあって、やはりきちんとした集団家庭生活みたいなものを持っている。雄は雄、雌は雌でそれぞれ職分があって、ちゃんと鼠なりに共同生活、まあ家庭生活みたいなものを持っている。ところがその鼠の家庭というものには、やっぱりちゃんと限度がある。
ある範囲の住まいに、だいたい限度を超した過密生活をさせると、しばらくすると鼠どもが非常な混乱に陥る。中の雄鼠などには、非常に狂暴性を増してくる、暴れるやつが出てくる。意味もなく興奮してかみついたり、けんかをしたり、それからもう雌鼠がちゃんと原則的に、やっぱり雌鼠は鼠の中でも雄鼠よりもきれい好きだそうだ。そうしてよく巣を整頓する。子供を可愛がる、仔鼠を可愛がる。
ところがそうなってくると、もう雌鼠がすっかり荒んでしまって、きれいにしたり、整頓をしたり、仔鼠の面倒を見るというようなことをしなくなる。それから鼠の男女関係がひどく乱れる。と同時に、その鼠の中に、また狂暴な暴れん坊に負けたやつは、もう昼間は委縮しておって、夜寝静まる頃にこそこそと這い出して外へ出てすくんでおったり、ちょうどヒッピーというような、ふうてん鼠が出てくる。
これは人間そのままである。この実験報告なんか読むと、これは鼠のことだか人間のことだかわからなくなる、錯覚を起こすくらいによく似ておる。そういう実験がもう兎にもあるし、鹿にもあるし、たくさんある。決して人間はこの例外ではない。
だから過密になればなるほど、この集団都市というものの人間が混乱してくる、狂乱してくるということはもう見えすいておる。然(しこ)うして着々現実化しておる。
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『心に響く言葉』安岡正篤著 株式会社DCS P.33〜35
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平成28年9月7日(水)
企業は、上手に経営を続ければ何十年でも、いや、何百年でも継続させることができます。一人の経営者がずっと続ける訳にはいきませんが、経営者は代わっても企業を永続させることはできます。
(略)
世界最古の企業はどこにある、何という名前か知っていますか。答えは大阪にある建設会社の「金剛組」です。金剛組の創業は西暦578年、今から1430年以上も前。時代で言えば飛鳥時代です。聖徳太子の命を受けて、海の向こう朝鮮半島の百済から3人の工匠が寺院建築の技術を伝えるために招かれました。彼等は四天王像をまつる寺院創建につくしましたが、その工匠の一人が創業したのが金剛組です。金剛組は代々、難波の四天王寺の建築に携わるなど寺社建築を得意とし、現在も建築業を続けています。
また、世界最古のホテルとしてギネスブックに認定されたホテルもわが国にあります。 石川県の粟津温泉にある温泉旅館「法師」です。法師の創業は西暦718年(養老2年)、今から1290年以上も前。この地で湯治宿を始めたのが最初です。当主は代々「法師善五郎」の名前を襲名し、現経営者は四十六代当主にあたります。法師は、「おもてなしの宿」として、 一度は泊まってみたいと、今でも大変人気があります。
光産業創成大学院大学教授後藤俊夫氏によると、わが国にはこのように創業1000年以上も続く企業が19社、500年以上が124社、200年以上が3,113社もあるそうです。
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『百年企業、生き残るヒント』久保田章市 角川新書 P10〜P11
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平成28年7月3日(土)
『ジャマイカ 楽園の真実』は、ニューヨーク在住の女性監督ステファニー・ブラックがIMFの矛盾を描いた2001年のドキュメンタリー映画だ。
レゲエ・ミュージック発祥の地であり「カリブの楽園」の別名を持つジャマイカ。だがふたを開けてみると、浮かび上がるのは政府が多額の借金を抱え、グローバル資本やIMFの管理体制に苦しめられる貧困国の姿だ。
ローラの言うように、IMFの救済プロセスは債務国にとって非常に不利な仕組みになっている。高金利融資と引き換えにIMFが債務国に課す「経済構造調整プログラム」は、「通貨の切り下げ」「政府の公的支出の削減」「貿易規制の撤廃」によって、その国の構造を根本から変えてしまう。
1997年にオイルショック危機から脱出するために、IMFと世界銀行から借り入れをしたジャマイカに対し、IMFは融資条件として関税などの貿易規制の撤廃を要求した。その結果、米国産を中心とした安価な外国産農作物が大量に流入、国内農家はいきなり、巨額の補助金で国に守られたアメリカの大規模農業と競争させられることになる。苦しくなったジャマイカ農家が政府に融資を申請したが無駄だった。そこにはすでに、IMFが決めた23%という法外な金利が設定されていたからだ。
さらに、IMFが国内に設定した、国内法が適用されない「経済特区」には、新規公開株に群がる投資家のごとく海外のグローバル企業が押し寄せた。「国内雇用を増やす」という美辞麗句を信じたジャマイカ国民は、特区に上陸した米系グローバル資本の工場で劣悪な環境の下、最低賃金以下で働かされることになった。
2011年11月5日。イギリスのフィナンシャル・タイムズ紙は、IMFがイタリアに申し出た低金利融資での支援を、ベルルスコーニ首相が拒否したことを明らかにした。イタリアはIMF活用に強く反発しており、IMF側は当事者からの支援要請がない限り動けないため、ひとまず監視団を送る予定になっている。
(略)
1990年代のアジア危機で、IMF介入を受け入れた韓国、インドネシア、タイといった国々は、金融機関をはじめ国内の主要セクターが民営化され、総数2400万人の失業者と共に2000万人が貧困層に転落したからだ。同地域から中産階級を消滅させたのは、危機そのものではなく、IMFによる介入だった。
韓国では企業による大量解雇を禁じる「労働者保護法」がIMFに撤廃させられ、国民の6割以上いた中流層がわずか3年で4割以下に激減した。
IMFは国連総会のような一国一票制度ではなく、その議決権は出資額に比例する。ダントツの1位は17%のアメリカだ。毎回、専務理事は欧米人が選ばれ、途上国の声は反映されにくいシステムになっている。ちなみに、IMF出資額2位は日本。日本も間接的に、加害者サイドにいるのだ。
IMFがジャマイカに突きつけた規制撤廃政策は、アメリカが長年日本に要求してきたことと全く同じ内容だ。ジャマイカで実施された貿易規制の撤廃と自由市場経済の推進、その結果起こった国内産業の空洞化や急激な貧困の拡大を見れば、同じ路線のFTA、その集大成である〈TPP〉の近未来が映し出されてくるだろう。
歴史を紐解き、バラバラの点をつなぎ合わせた時、幻想は消える。政治や経済、金融、軍事において、常に公平な国際機関など存在しないのだ。
「規制緩和」「緊縮財政」「民営化」というIMFの処方箋のベースは、1980年代末にIMFと世界銀行、アメリカ財務省の間で作られた暗黙の合意でもある<ワシントン・コンセンサス>だ。この手法は多くの国から批判され、最近ではIMF自体の内部からも路線変更すべきだという声が出てきている。
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『政府は必ず嘘をつく』堤 未果著 角川新書 P180〜P183
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平成28年5月10日(火)
税額と統制の度合いは正比例する
税金は高い国がよいか、安い国がよいか。
これはもう絶対に安い国がよいに決まっている。税金が高い国は、国民が不幸で政府の役人が幸福と、昔からそう決まっている。古来国の力がだんだん弱まって、ついに潰れるようなことがあったら、それは税金を高く取りすぎたせいだと断定してもよいくらいである。
どんなに緻密で太刀打ちできそうもない立派な意見であっても、税金を沢山取ろうとするならば、それは絶対に間違った考えである。ましてや役人がそういう意見を言う場合、これでもかこれでもかと山のような資料を出してくるが、資料が増えれば増えるだけ、どこか後ろめたい気持ちがあるのである。そうでなければ、山のように資料を出すはずがない。
昔から、アルキメデスの原理でも三角形の面積の公式でも、正しいものは一行で終わり。長ったらしい理屈に碌なものはない。増税は、国民の富を涸渇させ自由を奪う。
最近、日本人から元気がなくなっている。日本には活力の源が沢山あるのに、どうして元気がないかと言うと、税金の制度疲労ではないかと思われる。
“今の世の お上はきつい喘息で昼も税々 夜も税々“
江戸時代の狂歌は、こう皮肉っている。
皮肉ったところで、税金を取られたことは間違いないだろうが、封建時代の税金よりも今の税金の方が性質が悪い。例えば、封建制度では相続税を取らない。相続税を取らなかったので、貧富の差が縮まらなかったとも言えるが、いかな悪代官も根こそぎ取って行くようなことがなかったから、その点は親が死んでもビクビクして暮らす必要はなかった。
共産主義の御本尊のソ連や東欧が潰れて、資本主義の側の人たちが、「勝った、勝った」と大騒ぎしたが、喜んでいる場合ではない。アメリカだって、ヨーロッパだって、我が日本だって、税金から見れば、五十歩百歩である。
旧ソ連の中心である現在のロシア共和国を訪れる人が必ず口にするのは、「国中全部が闇市みたいになってしまっている。他の共和国も同じだ」ということだが、ついこの間までの統制経済が幅を利かしていた時代に比べれば、闇市の方がずっといい。これは人間としてまともな証拠であって、統制経済くらい非人間的なシステムはないのである。
税金の高い国というのは、誰が何と言おうと統制が進んでいる経済の国で、政治改革にいくらエネルギーを注いでみても、国民は幸福になれない。税額と統制の度合いは正比例するのである。
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『税高くして国亡ぶ』 渡部昇一著 ワック出版 P14〜16
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平成28年3月16日(水)
二、「信仰」
これは右の私の「宗教の定義」、そのなかにすでに含まれてゐることなのですが、私は「信仰」といふものについても、少々普通とは異る考へ方をするのです。
普通には「信仰」とは、神様なり佛様なり、或は教へなりを、信じて疑はない≠フが信仰であって、その信仰が強いほど、その人は宗教的にしっかりした、尊敬に値する人、と思はれてゐるのではないでせうか。
私はそれとは、全く別な考へ方をするのです。
神道の場合なら、神道はあっさりしてゐますから、柏手を打っておじぎをする。それで何となく清々しい気持ちになる、それでいいのでせう。強いて言へば、その気分で生きろ≠ニいふのが神道であり、それ以上につべこべいはないのが神道だ、といっていいのだと私は考へてをります。
佛教の場合は面白いので、(ここで面白いとは、聊か人様と違ふことを言わねばならない、そしてそこに大きな意味もあり岐路もある=Aといふことなのですが)、私は、
佛教は智慧の宗教であり、疑ってかかるのが智慧の始まりですから、佛教では「信仰」といふものを、あまり重んじないのが本当なのだ≠ニ思ふのです。
と思ふのです。
如何でせうかこの思想。違ってゐるでせうか。
「信じる」といふのとは別に、「わかる」といふことがあります。智慧の宗教である佛教では、この「わかる」といふことは実に大切なことなのですが、何かがわかれば、その次の疑問が出て来ますから、いつまで行っても「信仰」といふ姿の心の状態は生れて来ないのが本当なのだ、と思ふのです。
ですが例へば、前世や後世は本当にあるのか≠ニいふ問題、それを考へるとします。佛教的な考へ方はすべて「否定」で行くのですから、
無いと考へるのは、これこれこのやうなことを前提としてゐるからのことなのだが、その前提は悉く間違ってゐる
とわかったとしますと、
ではやっぱり前世も後世もあるのかな≠ニなって来ます。
そのやうな考へ方を繰り返へし、積み上げて行きますと、
あると考へるわけには行かないが、無いと考へるのもをかしい
といふところから始って、次第に、
どうもあるらしい、あると考へる方がいいらしい
となって来ます。
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『私の宗教観』木内信胤著 プレジデント社P106〜P108
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平成28年2月2日(火)
「日本固有の文明は、古くから大陸の支那文明の影響を受けたが、特に六世紀頃からは、漢字を媒介として印度文明の精華たる佛教を吸収することになり、あとずっとおくれて、これも支那文明の精華といっていい儒教を身に付けることになる。その三者が渾然一体化してひとつもののやうになった時に、西欧文明が入って来る。そのあと百数十年を経過した今日の日本の文明は、だから、インド文明、支那文明、西欧文明といふ世界の三大文明が、日本固有の文明によって統括されて、渾然一体化したものである。これが日本における「東西両文明の融合」というふものの実体である」
と、このやうな複雑な経過に気が付くやうになる。そしてさう気が付くには、無数の精神的過程を経ることが必要であった筈ですが、この無数の精神的過程によって、当初の単純な知識は、右に述べたやうな複雑な内容を持つものになる。それは当初の単純な知識が、「鍛練されてさうなった」とみるべきものです。
(中略)
「常識」とは、
「証明も理屈もなしに、それはさうだとわかること、それが常識といふものだ」
といってもいいものと私は思ふのです。
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『当来の経済学』プレジデント社 木内信胤著 P46〜P47
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平成28年1月14日(水)
サムシング・グレートに気づく
私は生命科学の現場に50年以上いますが、幸いにも多くの人々の協力を得て、これまでにさまざまな生物から1万6000個を超える遺伝子を取り出し解読することができました。ひとくちに1万6000個といっても、たいへんな数です。その一つひとつの遺伝子暗号を読み取っていくわけですから、途方もない作業になりました。
遺伝子の解読は、99・9パーセントの精度が要求されます。1万個のうち、たとえ1個でもミスをしたら、すべてがダメになってしまう。だから同じところを繰り返し繰り返し読みます。単純な仕事で、だからこそ集中しなければなりません。
しかも研究には厳しい競争があります。だれよりも先に成果を上げなくては、それまでの研究がフイになってしまいます。いちばんでなくては、記録に残らないのです。勝ったときはみんなで小躍りし、負けたときは一人で布団をかぶって泣いています。
研究の成果は論文として発表しますが、いち早く研究を仕上げ、いい論文ができたときの感動はなんとも言えません。書き上げた論文を一晩中抱いて寝たこともあります。科学者なら必ず読んでいるイギリスの『ネイチャー』やアメリカの『サイエンス』に自分の論文が載ったときも、非常に感動します。たくさんの論文の中から、著名な審査員が論議して、ふるいにかけられたものだけが掲載され、さらに、その論文は世界の学者の多くの論文に引用されるのですから。
あるとき私は、解読した遺伝子暗号を読み返しながら「わがチームはよくやったなあ」と思い返していましたが、「いや、待てよ、もっとすごいのはそれを書いた存在ではないか」と気づきました。当たり前ですが、読む前に、書いてあったということです。これだけ精巧な生命の設計図を、いったいだれが、どのようにして書いたのか。人間ができるわけがない。人間わざをはるかに超えています。
繰り返しますが、ヒトの遺伝子暗号は約32億の文字からなっています。1ページ1000字で、1000ページの大百科事典が3200冊にもなるような膨大な情報量です。それを60兆個の細胞の核の中、1グラムの2000億分の1という超狭い空間に書き込み、一刻の休みもなく働かせている。
これをやっているのはだれなのか。人間ではないとしたら自然としか考えられない。しかし、それは太陽でもお月さまでもないはずです。私は自然には二つあるのではないかと思い始めました。私どもがよく知っている目に見える自然と、もう一つは目に見えない自然がある。本当に大切なものは目に見えないのではないか。愛も見えないし、心も見えないし、命も見えない。これはすごい世界があるな、と打ち震えるような感覚にとらわれました。
そして、私どもの生命の設計図を書き込み、私どもを真に生かしている大自然の偉大な存在を、私は「サムシング・グレート」と表現するようになったのです。
万物の生命の親
サムシング・グレート(偉大なる何ものか)というと、ほとんどの日本人はなんとなくわかってくれますが、外国人からは必ず「サムシング・グレートと神はどう違うのか」という質問が出ます。
サムシング(何ものか)というのは、キリスト教やイスラム教のように唯一絶対の神を想定していないからです。神も仏もあるものか、と思っているような人たちも、それによって生かされている。いわば、太陽も月も地球も育てた大自然の法則をつかさどるもの。万物の根源であり、万物を生成する偉大な何かです。
万物といえば、近年になって驚くべきことがわかりました。医学・生物学における19世紀最大の発見は、すべての生き物が細胞からできているということでしたが、それに勝るとも劣らない20世紀最大の発見です。あらゆる生き物、生きとし生けるものは、まったく同じ遺伝子暗号を持っていることがわかったのです。
現在、地球上にはカビなどの微生物から昆虫、植物、ヒトをふくめた動物まで、少なく見積もって200万種、多く見積もると2000万種以上の生物がいるといわれています。しかも、今生きているものだけではなく、これまで地球上に存在した全生物が、A、T、C、Gの4つの化学文字からなるまったく同じ遺伝子暗号を使っている。
つまり、「人類みなきょうだい」どころではなく、すべての生き物は遺伝子でつながっている家族みたいなものなのです。
地球上の生物が等しく同じ遺伝子暗号を持っているということは、私どもの生命の大本は一つである可能性が高い。どんな生命も石ころから生まれるわけがありません。私どもは親から生まれましたが、その親、そのまた親とたどっていけば、その先には「生命の親」ともいうべき存在に到達します。
この、あらゆる生命の連鎖の起点にいるのが、サムシング・グレートです。私どもを高みから睥睨する絶対的存在ではなく、時空を超えて私どもと「命」でつながっている「原初の親」ともいえます。
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『今こそ日本人の出番だ 逆境の時こそ「やる気遺伝子」はオンになる!』村上和雄著 講談社+α新書 P102〜P105より
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